日本写真家協会会報 No.149 (2012年2月号)

日本写真家協会会報 No.149(2012年2月号)
■発行公益社団法人日本写真家協会
■頒価1ヵ年 3回 
3500円(消費税・送料込み)

正確にいうと定価でなくりょう価。我々写真家協会会員には無料で配布されるが、シロート衆は3500円払って見てくださっている会報である。その表紙に堂々わしのような写真家協会の末席を汚す人間の作品が掲載され、名誉この上ない。もちろん原稿料までいただいたが、こちらが金払っても載せていただきたかったぐらいである。写真家協会が主催する東日本大震災から一年めの写真展「生きる」の告知も兼ね、震災発生当初で希望が見える作品を、という条件でこのカットを提供させてもろた。同タイトルの写真集や写真展にも提供させてもろたのと違うカットやが、わしの両作品とも拙著写真集「再起」にも掲載されとる作品である。表紙はおろか裏表紙にまでクレジットうってくださり、さすが写真家の権利を折に触れ訴えてくださる協会の会報のことはある。本誌でも7ページにわたり「生きる」の紹介をしており、その豪華参加写真家の末席をもわしの名で汚し、恐縮である。また寄贈図書、JPSブックレビューでも拙著「再起」をご紹介くださった。まあわしみたいな協会末席のバッタカメラマンは別にして、本誌では石元泰博先生の写真展写真集「両界曼荼羅」を紹介されている。石元先生の作品「シカゴ・シカゴ」にはわしが学生時代に触れたがシブイ作品で、憧れの作家であられた。シカゴが生んだのはアル・カポネとデーブ・スペクターだけやない。石元先生がシカゴ時代ともに活動されていた写真家ハリー・キャラハン氏もわしが学生時代のヒーロー、クリント・イーストウッド主演の「ダーティー・ハリー」と同姓同名やからすぐ親しみを覚えた。まあそんな縁あって、わしは学生時代の親友だった田中秀和君と石元先生のアシスタントを1年ほど務めさせていただいた。もちろん当時の石元先生には須藤先生というファースト・アシスタントがいらっしゃり、わしや田中君は単なる荷物持ちであったが。そのアシスタントやがまあきつかった。もう修行やと割り切り、技術を盗む余裕もないというレベルやない。当時の石元先生は8×10(エイトバイテンもしくはバイテンと読みます)の大型カメラでこれまた日本を代表する建築家の篠塚先生が設計した筑波学園都市の建築物群のインテリアから外観までの本格芸術建築写真を担当という大型プロジェクトに関わっておられ、須藤先生が車の運転から、露出、色温度の計測を担当、石元先生がレンズ、フィルターワーク、あおって撮影までかなされていた。でわしは8×10のカメラとおそろしく高価な国産からドイツ製のレンズをひーひーいいながらそおと運ぶ、ストロボやライトをカーテンの後ろでささえるが担当であった。筑波の大仕事にはシカゴからごいっしょに帰国された奥様も立ち会われ、石元先生同様まあきびしい方で筑波の大劇場撮影時にいつものように緞帳のかげでトータライト(タングステン光のお化けアンブレラ)を両手でささえていたら、重いヘッドがずるずるこけはじめた。学生が弁償できるようなしろものやない。ただでさえ真夏のうえ高熱を発する大型タングステンライトである。汗だくでささえていたがとうとう耐え切れずこけて・・・の寸前顔面で受け止めたとこで露光が終わった・・・が顔面当然火傷を負った。マクドナルドのドリンクの氷で顔面冷やしていたら、奥様から急いで次、とお叱りを受け、それでもライトをささえつづけた。石元先生はまたライフワークで山手線を8×10で撮るというとてつもなくしんどそうな作品も撮り続けておられ、そちらは車を使わず、山手線に乗って移動していたからわし一人でアシスタントを務めた。アルバイト料は授業料込みだったのでそんなに高くはなかったが、非人道的に安くもなかったが、ほんとにきつい仕事やった。「両界曼荼羅」が最後の仕事になられたがどの作品も素晴らしかった。当時20歳前後のわしと並んで山手線の階段をジュラルミンのケースかかえて上るほどお元気やったが、震災1周年でわしらがばたついているなか息をひとられたという。ご冥福をお祈りいたします。