中日新聞 10月18日号

中日新聞 10月18日号 中日新聞 10月18日号
■発行中日新聞社
■定価一部130円 月ぎめ3,920円(朝夕刊)

我が愛するドラゴンズの親会社、中日新聞から初めて取材を受けた。しかもわしの写真展「アサイメント」の告知までしていただいた。しかも紙面化されたのはかなり偶然性が高かった。取材されたのは渡部圭記者、わしとほとんど年も変わらんが、実は旧知の間柄、2001年の暮れも押し迫ったアフガンはカブールでこのときも偶然同じ宿になった。8年前のわしの写真展「いつでも、どこでも、誰とでも」の一発目の「ワシントン タイム」やの「シュテルン」やの「週刊文春」やの世界の名だたるメデイアのボードの前でわしが写ってる記念写真が撮られたのが、その宿ムスタファ・ホテルであった。アメリカで9.11が起こり、その後アフガンで空爆が始まり、結果アフガンのタリバン政権は北部同盟軍閥に政権を奪われた。その瞬間「カブール陥落」をわしはその直前にアフガンから帰国するという失態を演じた。ほんまは歯痛とかいろいろ事情があったんやが、詳しくは拙著「ワシは舞い上がった」「ワシは舞い降りた」にあるが、まあそれからあわてて準備し、今度はパキスタン経由で国連機でバグラム空軍基地からアフガン入りした。バグラムではわしと入れ違いに後に日本史上最アホの首相の当時は民主党の幹事長やったかな・・・鳩山由起夫センセイ一行とすれ違った。SPと秘書も同行し、当時はまだアホぶりの片鱗を見せてなかったので、秘書の方と立ち話したら、なんと民主党はカブールに内戦終結したばかりというのに、事務所開設したという。バグラムからカブールへの足やカブールの宿の手配はイスラマバードで当時新築されたばかりのホテル・ラベンダーの督永さんにお願いしていたが、案内されたのがムスタファ・ホテル。二人部屋の同室はいっしょのフライトで来た西日本新聞の方、部屋は外が見えんかわりに4面、ガラスと鉄格子に囲まれ、どう見てもかつては刑務所、カーテンかかっていても隣の声も丸聞こえ。風呂はバケツ一杯のお湯、メシはまずいし、というわけで自炊ばかり、まあ前回のジャボルサラジの下宿でも自炊やったから、今回も宿のキッチンでと・・・とそこでお会いしたのが渡部記者。年末、年始もふくめ、今夜は肉じゃが、明日はカレーなべとごいっしょに包丁ふるった。渡部記者は当時、上海からカブールに派遣されたが、中国通。北京語も話されるが、それ以降お会いしたのは地元愛知の長久手で起こった立てこもり事件の時、あのSATの若い隊員が357マグナムで撃ち殺された近年最悪の立てこもり事件のあの時である。その渡部記者とともに、イスラマバードの督永さんも写真展にお越しくださったのも、渡部記者の記事のおかげ・・・では名古屋版やったから、偶然中部空港から帰国途中であった。経由のバンコク空港でお花とドライフルーツも差し入れてくださり、ありがとうございました。お花は母の病室でしばらくさん然と咲き誇っておりました。
他には一面のやはり地元三重でおこった名張毒ぶどう酒事件の奥西被告の再審が却下された記事が3面とともに大きく掲載されている。「毒ぶどう酒」という表現に事件の時代性を感じる。さらに一面に伊豆大島の台風被害の一報が写真とともに掲載されている。わしも写真展さえなければすぐにでも駆けつけ・・・なんて愚痴は言わん。今だ行方不明者が全員発見されてない凄惨な現場ではこの年齢では足手まとい、警察や消防のやっかいになるのが関の山やったであろう。四半世紀前の大島大噴火のときはその日のうちにフェリーに乗り込んだのはよかったが、大島に上陸できたのは警視庁の機動隊だけ、そのまま竹芝桟橋にもどり、24時間を無駄にしたあとで、大島の対岸神奈川県の真鶴から上陸のチャンスをうかがっていた。真鶴から大島に運んでくれる漁船を捜していたのはなにもわしらだけやなかった。当時のフォーカスのご一行も血眼になっていたが、そのカメラマンが新玉元司さん。後になんどもごいっしょに仕事したが、今年の夏すい臓ガンのため、他界された。やっとこさチャーターした漁船で元町の港に接岸、上陸を制止しようとする警視庁機動隊員を振り払い、上陸できたのはわずか5分。それでも全島全町民避難後、無人となった町を徘徊する犬の写真が撮れた。機動隊から追い払われ島を離れるわしらを陸からしれーと見送っていたのも、どこから見ても漁師しか見えなかったフォーカスの磯俊一カメラマン。磯さんもその後ガンのため他界された。いっしょの漁船に乗っていたのは同僚カメラマンの小原玲氏。そう今やネイチャーフォトの第一人者のあの小原カメラマン。小原氏もいま名古屋在住、写真展には銀座に続き名古屋にも奥様とともにお越しくださった。というわけで、棲家のある東京、地元知り合いが多い大阪以上になつかしい想いにふけった名古屋での2週間であった。