正論 8月号

正論 8月号
■発行 産経新聞社
■定価 780円(税込み)

今月の連載はウクライナの選挙。ちょっと古くて腐りかけたネタかと思うてたら、ドネツク上空でとんでもないことが起こった。もはや隠しようがないが、ウクラアイナの親露派が対空ミサイルでマレーシア航空撃ち落しよったのである。マレーシア航空もさきの北京息行きの行方不明事故というか事件に続いてまたである。かけてある保険にもよるが、原因が内戦、紛争に関わってたら、どこの保険会社も支払いを渋るというか1ユーロも払わんやろ。落とした親露派の自称ドネツク人民共和国の自称政権もたとえ責任認めても支払い能力はない。陽に陰に武器や資金を親露派に与え続けてきたロシアも今回はハシゴはずすやろ。「我がロシアはドネツク人民共和国の政権を認めたことも外交関係もない」と。わしはこの原稿の締め切り時はドネツクにおった。入りはイスタンブールからドネツク入り、帰りはドネツクからイスタンブール、そこからパリ、フランスでノルマンディー上陸70周年取材して、イスタンブール経由で帰国。チケットも日本のトルコ航空一本で手配できた。そのドネツク空港が紛争の火種となり、親ロシア派武装勢力が選挙、ウクライナ国軍がそこに空爆をかけ、激戦地と化し、帰国便どころか当分空港閉鎖となり、帰れんようになったのである。ドネツクより東のスベドロフスク、北部の古都ハリコフとも国際便は出てるが、陸路での移動ではいやでも親ロシア派勢力下を通る。それがいやなら西部のドニエプロペトロフスク、首都のキエフまで突っ走る。もっともどっちも親ロシア派支配下のドニエツを出る際、親ロシア派武装勢力の検問をいくつも突破しなければならないが。さらにそれでも嫌なら、鉄路がある。特急でドニエプロペトロフスクまで6時間急行で12時間、この特急が一日3便くらい、そのどれもが満席。当然単身陸路で脱出という毎度のヤバイ橋を渡るはめになった。キエフからはイスタンブールを経由しなくてもパリ便があるが、陸路で8時間、当然ゼニもかかる。ドニエプロペトロフスクからはトルコ航空がイスタンブールまででている。チケットの変更は紛争が理由なのと、いずれ空港閉鎖は解かれるという理由で手数料をしっかりとられ、車を借り上げたゼニも加算され大きな出費となった。まさかこんなに戦火が拡大するとは読めんかった。ちなみに当地ではワシらの間では親ロシア派(プロ ラッシアン)とは言わず、DPR(ドネツク人民共和国)政権もしくは独立派と読んでいた。他には元週刊朝日編集長の河村二郎氏の、我が朝日よ、「慰安婦」で謝るべきは日本でなく、君だろう、は今月の特集「日本を貶めて満足か!朝日新聞へのレッドカード」に掲載されているが、週刊朝日といえば、故野村秋介氏が自決する原因を作ったメディアである。そこの元編集長がそのときの「自殺報道」を反省すべきと今言ってるのであるが、当時はその詳細を紙面化するよう社長に迫っていたという。社長は当然逃げの一途やったらしいが、その場にいた当時の週刊朝日の編集長の小物ぶりはその週の「編集後記」の短い一文だけでなく、後にその場の様子の録音からも明らかになったが。さらに他には西元徹也氏の「自衛隊員の悲嘆は聞こえているか」で「役立たずの周辺事態法」について述べられている。西元氏とはカンボジア、モザンビークのPKOで同じ時間を数週間すごした。(拙著「ああ、堂々の自衛隊」「史上最低の作戦」を参考にしていただくと幸いです)やはり日本が最初に参加したカンボジアのPKO派遣の際の陸上幕僚長の印象が強い。職種は戦車やったが、タケオを視察した際1月15日の成人の日にカンボジアで新成人となった10数人の自衛隊員にお祝いを贈った朝を思い出される。またタケオの街中をランニングされた。当時警務隊を率いていたUNTAC内のコール・サイで「カミカゼ・カーツ」と呼ばれていたスキンヘッドの林3佐(当時)も武器をどこに持っていたのかいっしょに数キロ走ることになり、ワシもまだ31歳でとうとういっしょに走り、ひーひー言わされた。その後統合幕僚会議議長という陸海空自衛隊員のトップまで登りつめ、モザンビークのPKOも視察され、制服を脱がれた。その後は自分が指揮官のときに関わった土地だから、その後の責任もあるからと、カンボジアに何度か渡られ、地雷処理のNGOにも関われている際にもお会いできた。あの時の渡辺大隊長も震災後東北総監を最後に制服を脱がれた。年だけこいて、変わらんのはわしだけか。