余震がM5ぐらいなのである-新潟
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  台風23号取材から帰京直前、全日空便の出発が地震の影響で出発が遅れるとアナウンスが耳に入った瞬間いやああな予感がした。

その予感はスコンと当たり、長い出張の疲れを癒す間もなく翌日関越道で新潟に向かった、なんて予想したあなた、あんたは報道カメラマンにはなれん。関越道は地割れでとっくに通行止め一般道もその影響で大渋滞、新幹線も脱線でぱー、東京、新潟間は民間機もこの時点ではとんでなかったのである。

正解は東北道で福島へそこから磐越道で新潟や夜はがらがら、4時間足らずで着く。写真はさらに翌朝まだ火災の煙がぶすぶす上がるかの有名になった濁沢のがけ崩れ現場である。

余震がM5ぐらいである。このほんの10分まえにもでっかい余震があったばっか。それを下方から見上げるのにはびびった。この日の午後にはこのあたり立ち入り禁止となった。
 
  濁沢の温泉街ではふもとのがけ崩れのため孤立。

食料、飲料水もなかなか回ってこなかったが、そこはさすが温泉街。ストックしていた食料でこの朝もおかゆと焼しゃけ。たまたまとおりかかったわしにもおすそわけしてくださった。

被災民のかたに食事をたかるなんぞ最低の報道陣だが、このしゃけはっきりいってしゃばのコンビニ弁当のしゃけなんぞ足元にもおよばんくらいぷりぷりで、塩気もぴったし、おかわりしてしまったくらいであった。
 
  錦鯉の産地で有名な山古志村は地割れで養殖の池が決壊、一匹何万円の錦鯉が道路でぴちゃぴちゃのたうちまわっていたが、やがて力尽きた。

水が抜けた養殖池のちかくは悪臭が漂っていたが、ここの錦鯉、かの有名な目白の田中角栄邸の庭の池でも泳いでいたと言う。娘の田中真紀子の家の庭にもいるかどうかは不明であるが、田中邸にいたのは一匹何百万クラスであった。
 
  今日本一有名な村になってしまった山古志村に通じる道路は土砂区崩れのためすべて通行止め。

土砂の山をひーひー言いながら越え、歩き続けること3時間、こりゃお年寄りが単独で脱出できんわけである。

しかも村にいるのは老人と子供ばっか。中越の過疎化のすさまじさをこんな機会に実感できるとは思わんかった。

全村避難命令がだされ、子供とその母親、老人、村外者、最後に若者の順にヘリで脱出する足取りも重い。
 
  こんな災難でもなければ、一生ヘリなんぞ乗る機会もなかったであろう村民の方を迎えに来たヘリの第一便は陸自のブラックホークであった。

映画のブラックホークダウンの、あのブラックホークである。
 
  余震の恐怖の下、脱出のヘリを待ち続けるお母さん。
 
 

山越村の一番北の集落までがけ崩れ現場からわしの足で一時間半、村役場まで3時間。

それも両手両足使ってヒーヒー言ってである。子供やお年寄りが残るはずである。

しかもだだでさえ過疎、人口より確実に錦鯉と闘牛の数が多い村である。

脱出の優先順位は子供とその母親、次がお年寄り、そのお年寄りが多い。次から次にお年寄りが続く。

 
  陸自のブラックホークはたださえダウンウオッシュ(ヘリの回転翼が吹き降ろす強烈な風)がきつい。

LZ(着陸地点)すぐそばでそれに身を低くしてふんばるさっきのお母さん。
 
  村民の誘導にあたるはなんや、おめでたそうな泣く子も黙るかどうか知らんが新潟県警機動隊のおまわりさん。
 
  不安丸出しのお母さんにかわって、今からへりに乗れる興奮からかやけに興奮気味のお子様たちが印象的であった。
 
  陸自のブラックホークの爆音にびびる村民を誘導するは山間部なのに海保のレスキュー隊。
 
  さきほどの機動隊の警察官、お年寄りを引き連れ、臨時のヘリポート(闘牛場の駐車場)まで歩く歩く。
 
  こちらはきのみきのままのお年寄りはなにがなんやかわからんお年寄りそりゃあそうや、昨日までこんな災難予想もしなかったのである。しかもこんな不便がいつまで続くかもしれんのある。
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
 
 
 
 
 
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